TUBEが“夏のKING”なら、杏里は“夏のQueen”。
夏の女王、ここに登場である。

(1)きっかけ
 それは衝撃的な出会いから始まる。21年前の高2の6月。それは教育実習の季節。関大から来た教育実習生に一目惚れ。
 さらさらの長い黒髪、ほのかに焼けた小麦色の肌、そして印象的な大きな瞳。同じテニス部の同級生のとりなしで2言、3言は言葉を交わす機会はあったものの、それだけで終わった。
それから3ヵ月後、その頃通い始めたレンタルレコード店でバッタリ再会した。それはレコード棚。

「あっ、先生、こんなところで再会ですね。」

 小麦色に焼けた“そのひと”が微笑んでいた。容貌が似ているというほどではなかったが、イメージはそっくりであった。それから20数年のお付き合いになるとは、そのときは予想さえしなかった。
 
 '78に「オリビアを聴きながら」で17歳のときにデビュー。当時はこのデビュー曲はさしたるヒットにはならなかったが、80年代後半のカラオケブームに乗って徐々にヒットし始め、90年代初頭は女性のカラオケの定番の1つとなる。
 この80年代初頭の爽やかポップス三人娘と言えば、杏里、竹内まりや、EPO(当時の自分から見れば、お姉様。そういえば、3人とも長身だった。)。そ れぞれ、杏里「思いきりアメリカン」、竹内まりや「不思議なピーチパイ」、EPO「う、ふ、ふ、ふ」とCMソングであるがヒットを持っている。この頃の CMソングは売れ線が多く(今でも?)、名曲というより洗練されたものが多いと思う。
 


(2)角松サウンド
 80年代は杏里の華々しい躍動の時代であった。'83のシングル「Cat's Eye」で売り上げ80万枚を超える爆発的ヒットを飛ばし、「悲しみがとまらない」、「気ままにReflection」とシングルヒットが続く。音楽スタ イルは、歌謡ポップス(デビュー当時)→AOR(80年台初頭から中頃)→ダンサブル(80年代後半〜バブル期) と、時とともに変 遷していく。
 80年代前半は最強のパートナー“角松敏生”をプロデューサーに迎えていた時代。この頃は、まだ“プロデューサー ”という言葉が一般化しておらず、歌手が前面に押し出された、言わば“プロデューサー不遇”の時代だった。しかし、 私は“角松敏生”をFMラジオ番組で知り、番組では「悲しみがとまらない」を作ったと語っていた。いやいやこの曲の作曲はその頃 のヒットメーカー“林哲司”だから何を言っているんだ、と軽く思っていたが、編曲を担当したという。これが、後に“ 角松敏生”の音楽にハマルきっかけとなる。
 角松プロデュースのアルバムは、82年「Heaven Beach」、83年「BI・KI・NI」と「TIMELLY!!」、84年「COOOL」。個人的に、この時期を“杏里の黄金時代”と考える。


   

 
 冒頭で触れた初めて聞いた杏里のアルバムは、83年の「TIMELLY ! !」。
シングルの「CAT'S EYE」と「悲しみがとまらない」が入っているから失敗はないだろう、という何気ない選択が予想もしない展開となった。レコードの針を落とすと、そこに展 開するサウンドは(杏里のボーカルもさることながら)ヤシの木の木陰、夏の夕暮れどきのビーチでのパーティー、潮の香り、リゾートの夜の静寂を表現した AORの傑作。アルバム収録曲はほぼ角松敏生の作詞・作曲・編曲である。これこそ、杏里のボーカルと作家角松敏生の技がうまくミックスされ、アレンジャー の思惑通りかはたまた予想を超えたか、ボーカリスト“杏里”はうまく自分なりの解釈や表現で他人が作ったメロディーを自分のもの にしている。
 このアルバムは、今や廃盤となっており、中古市場でしか手に入らない。しかも、値段は当時の定価¥3500の倍近くまで跳ね上がっている。80年代の杏里のアルバムのデジタルリマスターによる復刻盤はいつリリースされるのか?
 その後大学生になってからも杏里のアルバムを集め続け、80年代のオリジナルアルバムは全て、マイ・ライブラリーに並ぶこととなった。
 
(3)バルブ期のアルバム
 80年代初期からバブル期を超え、90年代初頭までは、杏里はTUBEと同じく、毎年6月後半頃にアルバムをリリースしてツアーを行なう、というサイクルで活動していた。
杏里のアルバムが店頭に並ぶと、“夏到来”を実感する。
そして、バルブ期は、角松サウンドとは明らかに異なる、まさに時代を示唆するような派手なダンサブルなサウンド。黒人コーラスを多用し、英語詞をのせてもスマートな洋楽的テンポとリズム。
 ♪金土日曜とんぼがえり 月曜日にゃ出勤よ〜と“ウルトラバイオレットNo.1”に出てくる“週末だけのパラダイス”を満喫するOL達のために書かれたようなナンバーたち。
 88年「Boogie Woogie Mainland」、89年「Circuit of Rainbow」、90年「Mind Crusin'」、91年「Neutral」、92年「Moana Lani」とアルバムが続々と創出され、この時期を“杏里のピーク期”と呼ぶ人もいる。


    

 リゾートでの男女の出逢いと別れを描写。Hawaiiで真っ赤なコンパーチブルに乗ってクルージング、そんな爽快な空間と時間をこれらのアルバムと共有できれば、それは文字通り“パラダイス”。
 そして、この頃から発表する曲は、杏里自身の作曲がほとんどとなる。
(しかし、作曲といっても、杏里がギターを弾いたり、ピアノの前に座っている姿は、これまでTVで見たことがない。歌っている姿しかイメージできない。)
 こうして独自のダンサブルな音楽スタイルを確立していくが、爽やかな角松サウンドに慣れ親しんでいた自分としては、方向性がずれていくような気がしてがっかりした時期もあった。
しかし、エキゾチックでかっこいいサウンドには変わりない。
 
続く



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